大阪府の泉北地域にある政令指定都市『堺市』。なんば南海難波駅から空港線に乗って10分で堺駅に到着。『環濠都市』と言われている堺のまちなみを散策してみました。
町割が変化した堺
ここは大阪湾側の南海線の堺駅。今は駅前周辺には特に栄えてはおらず、官庁街やメインストリートのある繁華街は実はこの逆側のJRの『堺東駅』。
かつて室町時代から商業の街としての名残りのあるのは南海線のある側の堺市の北西側がかつての旧市街と思われる。
かつての貿易都市『堺』は室町時代後期から江戸時代のはじめまで繁栄を極めた自由都市でもありました。
しかし歴史の渦に巻き込まれて過去の町は地下に埋められてしまっています。
堺の町は周囲を堀で巡らせた『環濠』の都市でもあり、その町割も戦国時代から江戸時代に掛けて大きく変わったようです。
安土・桃山時代 織田信長が堺に圧力を掛けた時代は自治都市としてのまちの防御も想定し、内側に堀を巡らせ、町を囲う堀の幅は10m以上と堀も深くして、二重に巡らせたりしていたようですね。
町に暮らすボランティアガイドの方に案内していただいたのですが、当然のことながらその堺の歴史をご存じで、『大坂夏の陣』慶長20(1615)年による大火災の後の徳川家康による町割をまるで見たように語ってくれました。
江戸幕府によって行われた『元和の町割』は南北の大道筋、東西の大小路通を基軸として、碁盤の目の形に町割りしたものです。
千利休の面影を残すまち
茶の湯の世界において千利休は茶の湯文化の頂点を極めました。
わび茶の完成者として今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と言われています。
正親町天皇から利休居士号を賜り、天下人の織田信長、豊臣秀吉に茶道として多くの大名に影響力のあった人物です。
千利休は堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれで、実家は納屋衆で倉庫業を営んでいました。この時代は日明貿易の拠点が兵庫津から堺に移ったことを受け、貿易港として繁栄した背景もあり財を成した豪商の家です。
ガイドの方によるとここに屋敷跡があったと言われていて、正確な場所として明らかではないが茶の湯に使う水を汲む井戸があったとのことなのでこのあたりとのこと。
広大な利休の屋敷があった場所に関しては、文献や絵図は残っていないそうで茶器などその痕跡を伺うものもなにも見つかってないようです。
そして千利休が豊臣秀吉から切腹を命じられた死の真相もさまざまな憶測で言われています。
屋敷跡には『椿の井戸』と利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材で建てられた『井戸屋形』があり唯一往時を忍ぶ建物の跡があります。
山門の二階の建物に使われた柱や梁の材料がそのまま使われています。
歴史を感じさせますね。
井戸が残るこの場所は、江戸時代後期の弘化2年(1845)年、商人の加賀田太郎兵衛が茶室を建てた場所。
調べてみると加賀田の茶室は、利休が生まれたとされる今市町に建てられました。
茶の湯に使ったという井戸もあり、利休屋敷跡とも言われるようになったそうです。
千利休が切腹の後、屋敷がすべて破却されそこにあったものがなにも残らず、ねこそぎ奪われたもしくは焼かれたといったさまざま噂もあり、すこし都合のよいお話にも聞こえ、それはいまでも謎のままのようですね。
堺の歴史と文化を知る『さかい利晶の杜』
千利休屋敷跡の向かい側には、『さかい利晶の杜』という文化施設があります。
千利休茶の湯館や与謝野晶子記念館を併設していて、千利休ゆかりの品々や文化財を展示しています。
この施設の評価については賛否両論なのですが、わたしは結構楽しめました。
この施設で楽しみにしていたのは『さかい待庵』
京都府の大山崎にある日本で唯一現存する千利休作の茶室『待庵』の天正11年(1583)創建当時の茶室を復元したものです。写真撮影が出来ないので様子は写真で説明ができません。
設えは非常に詫びているのですが、とにかく狭い。茶席として人をもてなすにはあまりに窮屈で居心地が良いとは思えません。
炉『囲炉裏』幅が1尺3寸4分(40cm)現在の待庵は4尺床ですが、当時は5尺床(約150cm)トータルすると約190cm程度です。創建当時の壁には暦張り
現在のさかい待庵は湊(みなと)紙が貼られています。
内壁はワラスサを表面に出した土壁の塗り方。柱は北山杉の丸太で、簡素な材を使った侘びの茶室です。
山崎の地は竹が多いので、掛け込み天井にも竹がたくさん使われています。掛け込み天井とすることで、二畳でしかない圧迫感を和らげ天井板は杉の野根板を使っています。
角に炉を切り、室床という独特の床の間があります。
数寄屋造りの原点といわれています。
二畳の極小空間と言われていますが実感するのその狭さ
『待庵』では人と人の距離が近く密接。狭い空間での緊張感のある、あらゆるものがそぎ落とされて究極の侘びの真髄の茶室と感じました。
■大山崎妙喜庵 茶室待庵
次に入った茶室は『無一庵(むいちあん)』
天正15年(1587)10月1日北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)が行われました。
豊臣秀吉が開催した身分の上下、国籍を問わず参加できる大茶会でした。
その際に利休が構えた四畳半茶席を再現した茶室です。
茶室に入る場合は武家とはいえ帯刀をせず高貴な方々も頭を下げて狭い空間に入る。
躙口の方立は外側に『栗の皮付材』部屋側には『赤松皮付』の柱が立てられた。
天井にも竹や木の皮がたくさん使われています。
床の脇壁には利休の床としては唯一『墨跡窓(ぼくせきまど)』が明けられました。
床框(ゆかがまち)は塗框(ぬりかまち)黒塗りです。
手前座の脇に『洞戸(どうこ)』があり、その先の『京丸太』の柱
部屋の角の上部には『楊枝柱(ようじばしら)』
次に『立礼茶席(りゅうれいちゃせき)』『南海庵』にて茶の湯体験。
『表千家』『裏千家』『武者小路千家』それぞれの流派のお点前を順番に行っているようですね。
本日は『武者小路千家』のお点前を実際に見させていただいて茶席にて抹茶とお菓子をいただきます。
流れるような所作の美しさと佇まいが部屋の中に静けさと緊張感を生みます。
茶室での正座による正式な茶会ではないのですが、独特の世界が展開され、これは興味深いですね。
この部屋はレクチャーを受けるセミナールームなのですが簡単な床が設置されお花や掛け軸も掛かっていて茶室の雰囲気も出しています。
いろいろな茶碗が用意され、わたしは織部茶碗にお茶をたてていただき、堺の和菓子を食してちょっとした茶の湯体験でした。
これは堺の町に相応しい文化ですね。
その他この施設は堺の歴史・文化・伝統を発信する場でもあります。
『千利休』が生きた安土桃山時代の堺、『与謝野晶子』の明治大正時代の堺を知ることで、この街の歴史と文化を体験する施設でもあります。
一階は『千利休』の時代の堺。南蛮船のミニレプリカやその時代の資料が多数展示されていました。
当時の茶会のメニューが膳が再現して展示されていましたが、今を考えると華やかさはないですが贅沢な食材ばかり。
膳の左上から『鮒の膾』右手まわりで『串鮑』、『味噌やき汁』『飯』一汁二菜。右の膳には『麩の焼き』と『椎茸』の菓子
樂長次郎の轆轤を使わない『手づくね』の成形法による黒茶碗をはじめ黒漆を塗り込んだ『棗』
大胆な設えの竹の『花入れ』、竹の節を中央に配置した『茶杓』、表面に荒いテクスチュアを入れた『茶釜』そして今も残る履物『雪駄』など
2階は『与謝野晶子』のコーナー。
与謝野鉄幹との出会いや結婚とこどもたちに対する愛情。美しい文体による溢れんばかりの抒情性をおびた詩歌。あらためて見ると情熱的で感情豊かな感性が素晴らしい。
火は恋の思いの比喩だそうで 火=恋を詠んだ歌は『火の鳥』の特徴の一つ
パネル展示で時代を追ってわかりやすい。『与謝野晶子』の世界観を出しています。
堺の茶の湯文化と和菓子
千利休の愛した和菓子屋さんを覗いてみた。『さかい利晶の杜』沿いのメインストリート『フェニックス通り』を挟んで北側の路地を入ったところにそのお店はあります。
『本家小嶋』は天文元年(1532)『菓子屋吉右衛門』として創業以来伝統を守り続けた老舗の中の老舗です。あの千利休が愛したと言われる銘菓もあります。
外観の佇まいはこのようになっています。
内観は購入するスペースしかない。狭いです。
購入したのは芥子餅とニッキの詰め合わせ。
詳細は次回夕食取った場所とお土産品を紹介します。
営業時間:9:00~17:00(売り切れ次第 閉店)定休日:月曜日 TEL:072-232-1876
とありますが、17:00前には売り切れてしまいますので、早めに行かれることをお勧めします。
下記サイトでオリジナル商品を販売しています。
よろしくお願いいたします。